(二)
「………あぁ!」
青年は驚愕した。
丸く見開いた眼が、瞬きを忘れた。
あぁ。
あぁ…! ついに、ここに来たのだ。
ずっとあちこちを彷徨って、辿り着いてしまった-----。
雨に濡れてびしょ濡れの、青年の肩が震えた。
寒いからでも、不安からでもない。
青年は拳を握り締めて、身を震わせた。
男の姿を見ただけで、涙が零れ落ちそうになったのだ。
青年は、辛うじてそれを堪えた。
「…ああ、逢えると、思ってた…」
声を絞り出す。
「逢えると…、多分…、知っていたんだ、俺は」
「………?」
青年の言葉に興味を持ったのか、ようやく男が顔をこちらに向けた。
影から現れたその容貌は、まだ若い。
大きな傷を持つ顔。
顔を隠そうとする、長い前髪。
その髪の色は黒褐色とは異なり、闇には馴染まなかった。
「誰だ…?」
男は初めて、言葉を発した。
赤い髪の隙間から、青年に視線を寄越す。
「俺を知っているのか? …誰だ、お前」
「あぁ、俺は……」
青年は、息を何度も飲み込んで、
「俺の名前は…」
少し間を空けてから、ようやく
「俺の名前は、仔太郎、…仔太郎だ」
自分の名前を告げた。
男は仔太郎の名前には反応せず、ただ訝しい目で見つめている。
「前にどこかで会ったか?」
「…いや、まだ、だ」
「?」
男は眉を顰めた。
「悪いが、俺はお前を知らん。
お前に名乗る名前も…、俺にはない」
「あぁ。…いいんだ」
名前を無くした若い男。
薄闇でも判る程に、男の髪は赤かった。
その赤い髪は、誰をも怯えさせる忌きものであったが、仔太郎には優しきものであった。
正体が知れても、男から漂う血の臭いは薄まらない。
その血の臭いと赤い髪が、懐かしさを一層と深める。
触れたい。
手を伸ばし、触れようとする。
その手を直ぐに引っ込め、また伸ばす。そしてまた、引っ込める。
しばらく躊躇してから、仔太郎は尻を浮かせて男のすぐ隣に身体を寄せた。
赤毛の男はあからさまに嫌がったが、その場を逃げようとはしなかった。
「俺を知っている奴が、何故、俺に近寄って来る」
「あんたを知る者は、皆、逃げるのか?」
名前の無い若者は、意表を突かれたように肩を竦めた。
「そうだな。…いや。奇特な者も、居るには居たが…」
「そうか。じゃあ、俺はその一人だ。
雨が止むまで、側に居させてくれ」
「…勝手にすればいい。ここは俺の住処じゃない」
若者は無愛想に応えると、仔太郎から視線を外した。
「なぁ、話をしてもいいか?」
「………」
「無口って訳でもないんだろう? いいじゃないか、俺と話をしよう」
「………」
「俺は仔太郎だ。もう、小僧でもガキでもねぇ。仔太郎って呼んでくれ」
「………」
「あんたのことは、名無しでいいよな。
結構な名前を考えてやれるんだが、やっぱり名無しって呼ぶのが、一番いい」
「……煩い奴だな、お前」
男は観念して、溜息を付いた。
「もの好きだな。俺とこんな場所に居ることが、気味悪くはないのか?」
「髪の色のことか? やっぱり気にしてんだ」
「お前は気にならないのか?」
「別に、珍しかぁない。俺は異人なんて何人も見ているからな」
「……本当か?」
男の声色が変化した。
おそらく、誰もが初めて彼を目にした時に、畏怖と好奇の線を投げ付けるのであろう。
彼がその髪の色で、どれだけ哀しく悔しい思いを背負って来たのか、仔太郎には想像が付いた。
「あぁ。だから、なんともねぇよ」
「…そうか」
「それに、あんたと同じように名無しの男を知ってるんだ」
懐かしさに目を細めて、仔太郎は若者の姿を見つめた。
「ふぅん。名前のない奴ってのは、結構居るもんだな」
「俺がそいつと出会ったのは、背丈がまだ、今の半分くらいしかなかったガキの頃だ。
あんたは、今の俺と同じくらいの歳だな。…なんか、若ぇな」
「変な言い方しやがる」
記憶の面影より、ずっと若い。
顔の傷の場所は同じだったが、印象はずっと幼い。
そう思えるのは目の前の赤毛の男が、仔太郎の知る名無しの男より確かに若いせいであった。
「お前、そいつか誰かと俺を間違えているんだ。
やっぱり俺は、お前のような変な奴は知らん。もう俺には関わるな」
「なんだよ、せっかく逢えたのに」
「だから、知らんと言うのに…」
名無しの若者は、面倒臭さ気に髪を掻き上げ、やれやれとした表情を浮かべた。
この頃には、仔太郎の目はすっかり薄闇に慣れ、男のちょっとした面持ちを伺い知れるようになっていた。
「話しを続けても、いいか?」
「あぁ。…だが、雨が止むまでだ」
「当分止まないさ。きっと、ここはずっと雨のままだ」
「そうだな。…この雨は、もう長いこと降り続けている。
……いつからだ? ずっと、前からだ。……あの時から、…ずっと」
若者はふと、掌を見つめた。
そのまま、暫くそうして動かなくなった。
雨の降る音だけが、する。
赤毛の男は、動かない。
仔太郎は若い名無しの様子を暫く見守っていたが、ゆっくりと問い掛けた。
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