ストレンジ 



 この雨は、いつ頃から降り出したのか。

 もう、ずっと長い間。
 灰色の雲に覆われた空ばかり、見ているようだ。

 もう、ずっとこうして。
 冷えた身体を震わせては、陽の当たる海辺で馬を走らせる事ばかり考えている。

 こういう日が続くのは良くない。
 随分と慣れたが、こんな時には決まって引き摺り込まれる。

 身体を横にして目を閉じるのは良くない。
 判ってはいるが、逆らう事が出来ず、引き摺り込まれる。

 案の定、足元の影が伸びて来た。
 乏しい光が生む影は、闇に食われて姿を変える。

 瞬きの間に、真っ暗闇の中だ。

 ほうら。
 また、掴まった。

 だが。
 もう、慣れた。
 今はそう恐ろしくもなくなった。

 辿り着く先が何処であるのか、
 どうせ選べるものでもない。

 逃げても夜が来るように。
 避けても朝が来るように。

 引き摺り込まれてしまったからには、
 ただ、連れて行かれるだけだ。

 少し待ってから、
 ゆっくりと、目を開けば良い-----。

 いつものように…。

 ゆっくりと…。




「………?」

 目を開いた途端に、青年は嫌な顔をした。
 地に倒れていた身体を起こし、立ち上がる。

 いつもと様子が違った。
 いつもは、目を開くとそこはまったく別の場所だった。

 だが、辺りは先程までと同じ、薄暗い昼の雨の中だ。

 眠りに堕ちる前と同じ場所。
 しかし。
 景色や場所は同じであったが、息を取り戻した瞬間に違和を感じた。

 血の臭いだ。
 まるで降る雨がそうであるかのように、大気も地も、血の臭いに溢れている。

 気味が悪い。
 こんなに嫌な気分になるのは初めてだ。
 とにかく、この雨に打たれているのが耐えられない。

 寒い。
 嫌な雨だ。重い雨だ。
 まるで、血を吸った泥沼に沈んだ気分だ。

 ふと見ると、少し先に荒れ果てた小屋があるのに気付いた。
 青年は救われた思いで、屋根が崩れ落ちそうな廃屋に駆け込んだ。

「……ふ、ぅ」

 走ったのは僅かな距離だったが、息が上がった。
 雨の中では、喉元を締め付けられるように息苦しかったせいだ。

 雨を退けたら、幾分呼吸は楽になった。
 ぜぇぜぇと吐き出す息を整えながら、青年はようやく周りの様子に目を運んだ。

「……寺?」

 ぎしりと音を立てる腐り掛けた床に、壊れた仏像が転がっている。
 一間程の、狭い荒れ寺のようだ。
 破れた屋根からは、ぼたぼたと雨漏りがしているが、外にいるよりはましだ。
 濡れた髪の雫を払いながら、一息、安堵の溜息を付く。

 だが、すぐに身を強張らせた。
 気配がした。
 何かが、側に居る。

「誰か、居るのか…?」

 恐る恐る、振り返る。

 薄闇の堂の隅に、人が蹲っていた。
 一人だ。
 躯付きから、男のようだと知れる。

「………あ、」

 青年は気拙く声を潜めた。
 慌てていたせいで、気付かなかったのだろう。
 この雨だ。
 雨宿りの先客が居たとしても不思議はない。

 しかし、その者は青年が駆け込んで来ても、動こうとした様子はなかった。

「……?」

 訝しげに目を細めて、青年は先客の姿を見つめた。
 そして、胸が悪くなるのを感じた。

 血の臭いが濃い。
 先程の雨をたっぷりと浴びたからだろうか。

 いいや。
 自分から臭うのではない。
 この咽返る血の臭いは、その男を包み込んでいる。

 いいや。
 纏っているのではない。
 その者から、血の臭いが流れ出している。

 斬られた死体は、どれも血に染まって悪臭を放つ。
 では、まだ暖かな屍であろうか。

 違う。
 そこに居るのは血溜まりに身を沈めた骸ではない。
 確かに、生きている人間だった。

「……この雨だ」

 唾と一緒に吐き気を飲み込み、言葉を発する。

「済まねぇが、一緒させて貰うぜ」

 青年は、男に声を掛けた。
 応えはない。

 畏怖を感じたが、何故だか嫌悪はなかった。
 血の臭いを感じたが、何故だか雨の中のような不安はなかった。

「暫く、止みそうにねぇな。この雨は…」

 やはり、応えはない。
 屋根からの雨漏りを避けて、青年は男の側に腰を下ろした。
 男はまったく動こうとはしない。

 そんな男の様子が気掛かりで、青年はちらちらとそちらに目を運んだ。

 そのうちに、薄闇の中、ようやく目が慣れて来た。
 笠を被っているので、はっきりとは解り兼ねるが、どうやら青年と同じ年頃の若者のようだ。

 そう知れると、急にどんな顔をしているのか気になって来る。
 愛想がないから、強面だろうか。
 それとも。

 思った途端に、都合良く風が吹き込んで来て、男の笠が飛ばされた。
 伏せた男の顔にかかる髪が吹き上がる。

「………っ!」

 そちらを見ていた青年の眼に、男の顔がしっかりと映った。

「……あぁっ」

 男の姿を認めた青年は、思わず声を漏らした。



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