(四)

「おい」

 どれだけか経った頃。
 ふいに、若い名無しが沈黙を破った。

「もう、雨は上がるぞ」

「あ、…そうだな」

 いつの間にか、雨漏りの音が止んでいた。
 空を覗くと、先程までの大降りの雨が線のように細くなっている。

「ようやく逢えたのに、もう終いかよ」

 沢山、話したい事があったのに。
 何を話していいのか迷うだけで、言葉には出て来ない。

 だが、逢えた事がすべてなのだろう。

 名無しの抱えた首は、やがてその手を離れて墓に葬られる。
 血に塗れた亡骸は、やがて名無しの腕から消える。

 自分が名無しに助けられ、生きているからだ。
 自分が生きていることを、今は伝えるだけで良いのだ。

 その為に、こうやってここに来たのだから。

 仔太郎は灰色の雲に覆われた空を仰いだ。
 もうすぐ、合間から陽が射して来るだろう。

「空が晴れたら、また引っ張られるな…。ちゃんと帰れるかな」

「ずっと、行ったり来たりしてんのか?」

「あぁ」

「ガキの頃から、ずっとか?」

「いや…」

 空の様子を伺いながら、仔太郎は微笑した。

「犬が居たんだ。
いつも必ず傍に、一緒に居たんだ。その時には何も起こらなかったんだがな」

 一番大切な存在。
 離れることは、片時も無かった。いつも一緒だった、家族。

「……触れてやれなくなった時から、こうして飛ばされるようになった。
ずっと、俺を守ってくれてたんだな」

「……」

「そして今は、こうして俺をあんたに引き逢わせようとしてくれた」

「その犬が、か?」

「きっと、そうだ」

 飛丸との別離は辛く哀しいものであったが、今でも存在を感じる。
 ずっと一緒だ。
 飛丸はずっと、一緒だ。傍に居てくれている。

 そして、名無しに逢わせてくれたのだ。


「お前は、俺に会いに来たのか。どうして…」

「……名無し」

 仔太郎は、涙が滲むのを堪えて名無しの手を取った。
 血に塗れた冷たい手。
 その両手を握って、優しく撫でた。

「俺はあんたに助けられた。…あんたが守ってくれたんだ。
あんたは直に俺のことは忘れてしまうだろうが、覚えていろ。あんたは俺を助けたんだ」

 驚いたような、困ったような、どうして良いのか解らぬ表情を名無しは返した。
 その表情の中には、優しさが混じっていた。

「……そうか」

 名無しは頷いた。

「雨が上がったな」

 仔太郎の手をゆっくりと放すと、若い名無しは立ち上がった。
 刀の鍔が鳴る。
 封印された戒めの刀を、名無しはいつもその身から離さずにいる。

 もうお別れだ。
 名無しはこの出逢いを、もうすぐ忘れてしまう。
 これは夢なのだから。

 これから先も、ずっと苦しむのだ。
 自らが犯した罪に怯えて、生きる道と死す道を、迷いながら進んで行くのだ。

 そして。
 いつか、犬を連れた少年に出会う日が来たら-----。






 長い間降り続けていた雨がようやく上がった。
 雲が洗われて、空から眩しい陽が射し込んで来る。

 露で草や木が輝いている。
 雨上がりの、良い匂いが風に運ばれて来る。

 荒れた海も凪いだ事だろう。
 海面は陽を浴びて、美しく輝いている筈だ。

 仔太郎は馬の手綱を掴んで、優しく頭を撫でた。

「…走るぞ。
空を飛んでるみたいに、良い気分にさせてくれよ」

 少年の頃の、あの感動を忘れられない。
 冴えた月の夜。
 蒼い海辺を走り抜けた、あの高揚感。
 大きな背中にしがみ付いて、空を飛んだのだ。

 仔太郎は、少年の頃の自分に別れを告げ、海辺に馬を走らせた。


 終
2007.10.30

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