脱ちる色
瞼の上を舌先で舐められるのがくすぐったい。
眼を覆う髪を掻きあげた指が、頬に下りて傷痕を撫でる。
そのまま今度は人差し指が唇に触れて、残りの指が顎を掴む。
目尻に押し付けられた柔らかな温もりが唇に被さって来るより早く、
金色の髪を引っ掴んで引き離す。
一瞬、目と目が合う。
青い瞳が瞬きするより早く、名無しは自ら抱き付いて羅狼の唇に喰らい付いた。
「……ふ、ぁ」
吐息が吠える。
言葉は淫らな音にしかならない。
唇が重なったと同時に、互いの口を割り開いて舌を求め合った。
舌が触れ合うと身体が反応する。
相手の呼吸を飲む度に、飢えが増して喉が乾いていく。
身体を斬り裂いて、流れる血で渇きを潤したい欲望が生まれて来る。
肉で腹を満たしたくなる。
嫌な欲望だ。
そう思いながらも、酔いに似た心地良さを手放すのが惜しい。
恐れに似た虚しさが悦びに変わるのを知っている。
だから。
抱き締めた身体から、抱き締められた身体を自分から引き千切る事が出来ない。
「離せ…って」
まずい。そう思ったら負けだ。
だが、気付いてまた退いてしまった。
「…あ」
羅狼の大きな身体を軽く押し戻して、名無しは嘆息した。
夢中になる前にいつも怖気づいてしまう。
そして安堵する。
自我を失う方がずっと怖い。
この男はその方法を知っている。奪われたら戻れなくなる。
何処に戻る当てがあると言うのか。
それでも何処かが警鐘を鳴らす。
「あのな。別に、急ぐ必要はないんだ。食い意地を張る事もない」
押し返した羅狼の胸から手を離さぬままに、名無しは眉を顰めた。
「だが、焦らす必要もナイ」
その手を掴んで羅狼は名無しを睨める。
「おい、焦らすって、こっちが、か?」
「そうだ。いつもお前ガ、そうする」
「おいおい」
確かに、今しがた先に食い付いたのも、退いたのもこちらだが。
初めて会った時の事を思い出して、お互い様だと言いたくなる。
あの時、いきなり仕掛けて来て勝手にその気を失くしたのは誰だったか。
「お前ハ、逃げル事を、怖がらない。だから始末に悪イ」
「ん…?」
羅狼は呆れた様子だ。
逃げる事など出来ないと充分承知しているくせに何て言い草だ。
名無しも呆れた。
嘘吐き呼ばわりされている気がして、思わずむっとする。
苦笑しつつも口を曲げて、濡れた唇を舌で舐める羅狼を名無しは見つめ返した。
「まぁ、イイ。最初カラだ」
「ああ」
ゆっくりが良い。
逸る心に合わせて体まで動く必要はない。
羅狼は名無しの手を握ったまま、腕宛の括り紐をするりと引いた。
手首から当て布を外される。
露になった腕には、戦で貰った古い傷痕があった。
「……」
先ほど、右目や左頬にしたのと同じように、羅狼は残された傷痕に唇を寄せた。
既に痛みも痒みも無い、肌に刻まれて消えないだけの昔の痕だ。
誰にいつ貰ったのかも覚えていない。大事な思いすらない。
その空ろな過去の土産を、羅狼は愛撫する。
一つ一つ、羅狼は着衣の下から現れる傷を確認していく。
印を付けるように口付ける。
名無しに取って羅狼の行為は、奇妙であり、不愉快であったり、心地好いものであった。
「逃げる事が怖いんじゃない」
「何ダ?」
「逃げられなくなるのが、嫌なんだ」
「ナゼ、逃げようとする?」
「どうしてだろうな。多分、お前なら答えを知ってるさ」
「ああ、知ってイル。お前は逃げる気ナド、ないのだろう?」
名無しは笑顔を浮かべて笑った。
「何だ。やっぱり、知ってるのか」
「……」
笑う名無しの両の腕から宛を取り除き、羽織を脱がせる。
抵抗する事なく、名無しは機嫌良く微笑んでいる。
羅狼は襟を強く引っ張って、名無しの着物を肩から落とした。
大きな傷痕を残す胸元が曝される。
刀傷だ。
死ななかったのが不思議なくらいの大きな傷だ。
羅狼は急所にあるこの傷には触れようとしない。
嫉妬だ。
これだけの傷を負わせた相手に、羅狼は機嫌を悪くしている。
無意識にこの傷を避ける羅狼の事を、名無しは気に入っていた。
「くすぐったいぞ…」
「黙ッテいろ」
首筋と鎖骨にある小さな傷をぺろりと舐められ、名無しは思わず声を漏らした。
鼻に抜けた声で笑い出す。
耳たぶを軽く歯で噛まれて、背筋がぞくりと仰け反った。
咄嗟に羅狼の肩を掴んでしまう。
「…ふふ、」
羅狼のするままに任せて、名無しは笑い続けた。
その笑顔に応えて、羅狼も口の端を歪めて青い目を細める。
脱がせていく度に、名無しの体には傷痕が現れて来る。
どれだけの相手から死の恐怖を受け取り、逆に死に追いやったのか。
名無しの穏やかな笑顔の向こうに鬼の凄まじさを感じて、羅狼は戦慄した。
その震えに恍惚とする。
「お…、い」
羅狼は乱暴に名無しの体を掴むと、胸に顔を埋めた。
傷痕は無視して、乳輪に唇を押し当て、茶色の突起を舌先で突付く。
「ん…、」
二人の、小さな声が漏れて混じり合う。
「なぁ」
金色の柔らかな髪を名無しは撫でた。
「もういいだろ? お前に、身体の傷は総て曝したぞ」
「ああ、数えるのはもう飽キた。…もうこれ以上、お前の傷は増えナイ」
「だと良いんだがな」
「俺はお前に傷痕を残したいのではナイ」
「でも、痛みの方は今でも充分貰ってる」
名無しは羅狼の髪を撫でるのを止めなかった。
優しく指を髪に絡ませる仕草が気持ち良くて、羅狼もそのまま動かない。
「なぁ、下らない事を訊くが。お前は今の俺がいいのか?」
「今のお前で無ければ興味ナイ」
「お前は俺を、知っているのか?」
「ああ、知ってイル」
「そうか。でも、まだお前が気付いてない事があるんだ」
「?」
名無しは悪戯に満ちた眼で羅狼の青い瞳を覗き込んだ。
「何の事ダ?」
「後で、一緒に湯に入るか。そうすれば分かる」
「焦らすナと言っただろう」
「ゆっくりで良いんだ、急ぐ必要なんて無いんだからな」
「……」
困惑する羅狼に微笑むと、名無しは先ほどと同じように唇を押し付けて重ねた。
互いに舌を求めて絡ませる。
羅狼の手が名無しの頭を撫で、指が黒髪を梳いた。
焦っているのが分かる。
髪の色などこの男にはどうでも良い事だと思っていたのだが、知れば驚くだろうか。
羅狼が触れる部分から、本当の自分が現れて来る。どんどん皮を引き剥がされて裸になる。
逃げられなくなるのは嫌だ。
だからずっと逃げて来た。
逃げなければ良い事に気付いた今は、もう逃げていないのだろうか。
そんな事はありはしない。
怖くて怖くて、ほら、こうして急くのが嫌で焦らしている。
離れるのを嫌がっている。
「なぁ…」
「何ダ?」
「お前は、逃げないんだな」
「ナゼ、逃げねばならん」
「ああ…、そう考える方法もあったか!」
「もう、黙っテいろ」
「…ん!」
感心する名無しの唇が塞がれる。
声は荒い息へと変わっていった。
金色の髪が眩しい。
この男は正直だ。だから逃げたくなる。
この男に。
染めた色を落として、本当の色を撫でて欲しいと思った。
名無しは笑った。
黒髪の下に隠れる赤い髪を、疎ましいと思わなくなっている自分に気付いて、愉快になった。
終
09.03.09
羅狼と名無しのイチャイチャが書きたかっただけ…。それだけ(^_^;)
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