名無し
簡単な事だった。
髪の毛を黒く染めるだけで、この国の人間になれる。
眉を顰められる事もなく、畏怖や奇異の目でと見られる事もなく、気楽に話が出来る。
買い物一つするにも楽になった。
木の実を煎じて髪に塗るだけだ。
こんな簡単な方法で、こんな偽りで、こんなにも楽になるとは思わなかった。
自分を捨てた。
何の為に生きて来たのか。
何の為に、誰の為に斬って生き延びたのか。
心地好い音を立てて流れていく川面に、黒い髪の自分が映る。
石を放つと、嫌な顔が乱れて沈む。
そして暫く経つと、また現れる。
消えない、自分。
赤い髪。昔の自分は、いつもそれが悲しかった。
黒い髪。今の自分は、再び浮かび上がる己の姿を哀れんでいる。
消せない、自分。
まだこうして生きている事を、あの男が知ったら笑うだろうか。
赤い髪を恐れなかったあの男に憎まれ口を叩かれても、不思議と心の内が穏やかだった。
振り返ると、そこにあの頃の自分が居る。
自分を捨てても、忘れることは出来ない。
赤い髪の自分には名前が無かった。
そんな自分を捨てて、居心地が好くなったと思っている今の自分にも、
やはりまだ、名前は無い。
−終−
2008.07.04