岸辺 −魚釣り日和−
風に運ばれた落ち葉が水面に浮かぶ。
陽射しが高い空から降り注ぎ、川をきらきらと光らせる。
こんな穏やかな昼は、鳥のさえずりや小さな虫の音が耳に優しい。
退屈が心地好い。
お誂え向きの釣り日和だ。
川縁に支えを組んで釣竿を固定したまま、名無しは長い間浮きの様子を眺めていた。
飽きもせず、どんぐりで作った浮きはずっと同じ場所を漂っている。
釣れる気配はまったく無い。
何度も欠伸をしながら、時折頭の上を飛ぶ鳥に目を運ぶ。
雲がゆっくりと歩いて行く。
頭の後ろに腕を組んで寝転んだが、欠伸は出るのに眠りは誘って来ない。
のそのそと起き上がっては浮きの具合を確かめ、また寝っ転がる。
長い一日だ。
急ぐ用も無い。
夕暮れまでに、今日の糧を手に入れれば良い。
まだまだ充分に陽は高い。
腹は減っているが、晩飯までにせめて一匹魚が釣れれば良かった。
「ん…?」
ふと気配を感じた直後、影が覆い被さって来た。
殺気の無い静かな気配が、頭の傍に立ち竦んでいる。
大きな男の身体が、陽を背にして日陰を作っていた。
「……気に入らないって顔つきだな」
仰向けに寝そべったまま、名無しは目を細めて笑った。
逆光で男の顔は見え辛かったが、つまらなそうな表情を浮かべているのは一目瞭然だ。
「晩飯が遅いんで、催促に来たのか?」
「……」
男は黙って名無しを見下ろしている。
「生憎と、まだ一匹も釣れてない」
手元の魚籠は空っぽのままだ。
その様を見れば、失望するしかないだろう。
それを分っていながら悪びれる素振りもなく、名無しは意地悪く微笑んだ。
「なぁに、腹が減るのには慣れている。どうって事は無い」
慣れてはいない男が、苛立ちを顔に浮かべた。
「…おい。一体、いつからそうしているんだ」
「さぁな」
言葉は通じないが、溜息は伝わる。
異国の民である羅狼と名無しは言葉が交わせなかった。
どうにかなるので必要にも感じず、互いに相手の知らぬ言葉で話し掛ける。
羅狼は、名無しが朝からこうしているのだと知れて呆れているらしい。
「お前の過ごし方は、無駄が多い」
肩を竦める羅狼の仕草に、何を言ったのかを名無しは察っした。
ゆっくりと半身を起こし、座ったまま、川を覗いた。
釣竿から垂れた糸がゆっくりと流れて、浮きはぷかぷかと揺れている。
「……なぁ、」
名無しは長過ぎる前髪をかき上げると、双眸を羅狼に向けた。
光の加減で赤くも見える瞳に、羅狼の姿が映る。
「お前は“当ての無い場処”ってのを知らんだろう…?」
通じない言葉で返してやる。
羅狼は名無しの放った言葉の意味を察する事が出来ずに、眉を顰めた。
「何を言った?」
「……」
互いの過ごして来た場所は、流れている時間が違っていたのだろうと、名無しは時折そう思った。
異国がどんなところかは知らないが、姿や言葉が違うとかでは無く、生きる術が羅狼とは大きく異なっていたと感じる。
交えた剣がそれを教えてくれた。
引き寄せられる強さと同じくらいに、羅狼と自分には溶け合えない隔たりがある。
半身とも思える融合。出逢いの悦び。闘いの恍惚。
惹かれ合うのは似ているからだ。
だが同じでは無い。互いに相容れぬ道を生きて来たからこそ、そう思える。
「お前には分らんだろうが、俺はこうして過ごすのが好きなんだ」
目的など、随分と前に失った。
生きているのはただ生かされているからで、死んでやろうと思える程、自分が好きじゃなかった。
今はそう思っていた頃の自分があまり好きでは無い。
だが、相変わらず目的は乏しい。
だからこうやって、任せるままに一日を過ごす事を続けている。
腹を空かせて一日中空を眺めていると、虚しさを覚えるのでは無く安堵するのだ。
自分が在るのを、誰も咎めはしない。
その優しさが心地好かった。
そこに羅狼は踏み込んで来た。
嫌な奴に惹かれて、招き入れてしまった。
失態だ。
犯した過ちに項垂れながらも、名無しは気付かず微笑んでいる。
その笑顔を知る羅狼もまた、自身では気付かぬ微笑を名無しに与えていた。
「お前はきっと、こんな風に一日を過ごした事が無いんだろう?」
「……?」
「お前の強さは、きっとそのせいだ。
お前がこれから先、こうやってのんびりする事を覚えたら、きっともっと強くなるに違いない」
己を見失う事の無いこの男は、自分を知る度に強くなるだろう。
自分が失った時間をこの男は持っている。
名無しは羅狼の強さが羨ましかった。
「ツヨイ…?」
知っている言葉に、思わず羅狼が反応する。
「おっと、それは内緒だ。今はまだ、これ以上強くなられちゃ適わないからな」
わざと声に出した独り言が伝わらない事に、わざと安堵する。
揶揄(からか)うような名無しの笑顔に、羅狼は小さく舌打ちした。
「お前の気まぐれに付き合っていては、いつまで経っても飯にありつけん」
目を逸らして、羅狼は空の魚籠を見つめた。
やはり何も入ってはいない。
「期待してたのか? 済まないな」
腹の音が聞こえてきそうな気がして、名無しは素直に謝った。
「……ん?」
腰の鞘から、静かに剣を抜くと、羅狼は切っ先を名無しの鼻先へと向けた。
刃が、陽を受けて輝く。
その眩しさに手で目を庇いながら、今度は名無しが舌打ちする。
「おいおい、邪魔をする気か?」
「お前は好きなだけ腹を空かせていろ」
「何をする気だ?」
浅い川に足を入れると、羅狼は胸の高さに持ち上げた剣の刃先を、水面に向けた。
暫くして。
ふぅ、と溜息を付く名無しには気を向けず、少し間を置いて羅狼は刃先を真下に突き刺した。
バシャバシャと派手に水音が響いて、大きな魚が暴れる。
刃に胴を貫かれた魚は左右に身をくねらせてのたうち回り、やがて尾を下げて動かなくなった。
「……」
魚の血が、透き通った川の水を汚した。
先ほどまで、名無しが貪っていたのどかな景色が一変する。
羅狼は同じようにもう一度狙いを定めると、簡単に魚を数匹仕留めた。
表情も変えずに、掴んだ魚を名無しが用意した魚籠に入れる。
そのまま川から出てすぐに、羅狼は来た方向へと踵を返した。
「先に行く」
「おい、入れ物を持って行くなよ。俺が困るだろう」
聞こえない振りをすれば良いのに、羅狼は馬鹿にしたように笑顔を浮かべた。
必要ないと言いたげだ。
「日が暮れるまでに来なければ、先に食うぞ」
「……」
羅狼は一人で食べる分しか魚を捕ってはいない。
名無しは口の端を曲げて、流れに洗われていく川の濁りを睨んだ。
「日暮までは待っててやる」
「……ああ」
振り返る事なく、羅狼は来た時と同様に気配を消した。
いつも勝手にやって来て、勝手に帰って行く。
「やれやれ、」
落ちる前髪を何度もかき上げて、名無しは何度も溜息を付いた。
「相変わらずせっかちな奴め」
見上げると、僅かの間に陽が傾いていた。
腹が減っている。
気になるとますます空腹感が増して来る。
「…せっかくの釣りが、台無しだな」
名無しは近くに落ちていた木の枝をニ、三本拾うと、手頃なの選んでぶんと一振りした。
太さも先端の尖りも申し分無い。
納得すると、川に入って魚を探す。
暫く待つと、大きな魚の背が足元に近付いて来た。
釣り糸には見向きもしないのに、人の足には寄って来る魚の大胆さが滑稽だった。
狙いを定めて、枝で一突きする。
見事、命中する。
逃れられず、身を捩って暴れる魚を枝ごと引き上げて、名無しは大きく嘆息した。
その気になれば、魚を仕留める事など容易かった。
「あいつは剣の使い道を間違ってる…」
刀が万能刃物なら、封印も出来やしなかった。
そう思うと情けなくも笑えて来る。
「とりあえず、刀を振らなくても晩飯にはあり付ける。教えてやるべきかな」
腹の具合に合わせて、名無しはもう一匹、魚を獲った。
二匹で充分だ。
魚籠を奪われたので、両手に持てる分しか自分には必要ない。
「あいつの過ごした時間と、俺の過ごした時間は、まったく別だが…」
その異なる者同志が、殺しあう。
異なる者同志が、一緒に飯を食う。
惹かれ合うとはこういう事だ。
ふと、些細な事に気付かされる。
「それなのに、あいつも俺も、毎日腹が減るのは同じだ」
名無しは笑った。
岸辺の向こうへと、名無しは川の流れを逆らって歩き出した。
−終−
2008.11.19
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