星の標


夏の夜は仄かに明るい。

月が隠れた刻でも、闇は漆黒色には染まらない。
夏の夜は、辺り一面が、深い蒼色に包まれている。

虫の音が優しく囁き、
朝露をまとう前の草葉が、清々しく匂うからだろうか。

風が心地好く、昼の暑さを忘れさせる。
見上げる夜空には、数多の星々が瞬いていた。


ああ、この光がそうか。
だから、明るいのか。


今更ながらに、当たり前の事に気付いた。
いささか滑稽であったが、素直に納得する。

夏の夜はほんのりと明るい。

夜の天は高く、溢れる星が良く見える。
星はいつから天にあるのだろう。

地上に降り注ぐ小さな煌めきの粒を浴びながら、
名前を持たぬ浪人は、そんな事を考えていた。

「お前は、何処へ行く…?」

ふと、訊ねてみる。

草の上に寝転んで、名無しの男は夜空を見上げていた。
その横で同じように寝ていた男が、呟く名無しの声に耳を傾けた。

「当ても無く、気の向くままに進むのも良いんだが…」

隣に居る男に言葉が通じないと知りつつ、名無しは続けた。

「一人の時は、ずっとそうして来た。
道連れが居る時…、まぁ、そんな事は滅多には無いんだが。
大抵はその相手の都合で、何処かを目指している」

戦に向かう兵の一片だった事も、
小さな子供と犬が一緒だった事もある。

「お前は、何処に向かってる?」

「………」

男は応えない。
言葉の意味が通じないのか、或いは困っているのか。

首をそちらに傾げると、すぐ傍に男の顔があった。
思わず、瞬きをする。
こちらを見ている男の表情は、予想したものと違っていた。

視線に気付いて目を合わせると、男はいつも笑っているのだ。
子供染みた優越だったり、無邪気な攻撃だったり、
様々な思惑で、男は笑みを浮かべる。

今も、やはり笑っている。
だが、そう見えるだけだった。

微笑んでいる、と言うべきか。
こちらに向かって、静かな表情を浮かべている。

「………」

青い瞳が見つめている。
夜であっても、男の瞳が青いのがはっきりと知れた。

星の光と同じだ。
昼間の青い空の色と同じくらいに明るい。

何となくそんな気がして、男の瞳を覗き込む。

「ん…?」

名無しが顔を間近に寄せて来るのをかわして、
青い瞳の男は寝そべったまま天を仰いだ。

腕を空に向かって伸ばし、人差し指で星を示す。

「……?」

男の指が宙に何かを描いた。
名無しは指の動きを追いながら、夜空と男の横顔に、交互に視線を移す。

「何をやってるんだ?」

異国の言葉で、男は何か呟いている。
指が、星と星とを繋いでいく。

「……」

言葉が通じないのを、もどかしいとは感じない。
だが、何をしているのか解らない行為には焦らされる。

「わからんな。…何をやってるんだ?」

察する事が出来ずに、名無しは眉を顰めた。
小さく嘆息する。

男の大きな掌が名無しの手首を掴んだ。
そして、人差し指を握り締める。

「……?」

重ねた指を天に向ける。
されるがままに、名無しは腕を空に伸ばした。

ゆっくりと、指が動かされる。
何かを描くようにして、指が左から右へ。上から下へと夜空を撫でていく。

「……星?」

暫くして、指が星と星を繋いでいるのに、名無しは気付いた。
何の意味があるのか解らなかったが、男は指先を星の並びに運んでいる。

「星を繋げて、どうするんだ?」

理解出来ずに問う名無しに、男は一番明るい星を選んで指を向けさせる。

男の国では星座が深い意味を持つ。だが、そんな事など、名無しが知る由も無かった。
星の形にまるで気付かぬ様子に、男は苦笑する。

「…なぁ、」

星を結ぶ意味は解らぬまま、

「あの星は、お前の居た国にもあったのか?」

名無しは、男が示した星を見上げながら応えた。

言葉の意味が伝わったのか、男はゆっくりと頷く。

「そうか。…空は同じか。星も、そうなんだな」

独り言のように呟いて、名無しは微笑んだ。
一瞬の、哀しいような安堵に似たその表情を、男は見逃さなかった。

「旅をしていて、色んなところへ行った。
でも、何処に居ても、見える空、星空は変わらなかった。
お前の国でも、見えている星や空は、ここにあるものと同じなのか」

異国の男と、同じ空の下を歩み、同じ星空を仰いでいたのだと知る。
不思議な心持ちにさせられる。

夜空に散りばめられた小さな無数の星々。
ひと際明るい星の光の強さに魅入られる。
明るい夜空に吸い込まれそうになる。

言葉が通じなくても、
目の色や髪の色が異なろうとも、見ている空は一つでしかないのだ。

どこからでも同じ空。
同じ星。
互いが生まれた場所、来た場所、そしてここから見る空も同じものだ。

手が触れている。
指を絡ませて、同じ空を見上げている。

「なぁ…、何処に行く?」

向かう場所が、互いに求める場所だ。

一人で歩んで来ようとも、誰かと一緒であろうとも。

星が示す空の標を目印に、互いに互いの道を歩んでいたのだろう。


夏の夜空は、仄かに明るい。
草を揺らす風が心地好い。

星が夜の空一面に溢れている。


絡んだ指が、天頂に輝く星の標を示した。



2008.05.31





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