憧景
骨が軋む痛みで、少年は意識を取り戻した。
息を吸い上げた途端に、胸と腹に激痛が走る。
それだけではなく、身体中のあちこちが悲鳴を上げた。
「……う、」
瞼を開こうにも、適わない。
呻くのさえも辛い。
こんな風に痛みを感じるのは久し振りだった。
以前は、その日を生き延びられたことに感謝するくらい、毎日負傷し、痛みに苦しんだ。
強くなりたい一心で、足掻いていた幼い頃のことだ。
あの頃は、生きているのを痛みで実感していたのに。
いつの間にか、痛みを忘れてしまった。
強くなったからだ。
傷付けられるより前に、相手を仕留められるようになったからだ。
強くなったから痛みを忘れたのだろうか。
違う。
まだまだ強くなれる。まだ充分ではない。
まだ、隣人に容易く殺される程に、自分は幼い。
少年は自問自答を繰り返しながら、痛みが退くのを待った。
迂闊にも、どこかに頭でもぶつけて失神してしまったらしい。
どれだけ気を失っていたのか。
痛みがあるのは、薬の効き目が切れたからだろう。
「気付いたか?」
突然、耳元に声が触れた。
少年は驚いて、目を覚ました。
「……ぐ、ぅっ!」
反射的に身体を起こそうとして、激痛に顔を顰める。
「動くな。暫く、そのまま寝ていろ」
「……羅、狼さ…ま」
地に伏している自分の横に、羅狼の姿があるのだと気付き、少年は動揺した。
「…羅狼さまは、やはり、…お強い」
痛みを堪えて笑おとしたが、逆に酷い顔を見せているのだと自身でも解る。
情けない。
喋ると、血の味がした。
待機を命ぜられた一時。
そんな時は、皆それぞれが身体が鈍らぬよう、己を鍛えたりする。
風午は、時折そうするように、羅狼に手合わせを挑んだ。
いつもは相手にされない事が多いのだが、
暇を持て余した羅狼が、今日は珍しく相手を務めてくれた。
結果は、遊ばれただけだ。
いや、この程度。羅狼にとっては遊びにも足りぬに違いない。
圧倒的に、打ち込まれた。
仲間と言えど、羅狼は容赦はしない。
殺すつもりで攻めて来る。
風午も本気で闘った。
そして、無様にもこの結果だ。
勝てる相手ではない。
羅狼は強い。
誰よりも、強い。
「俺を殺せなくて、残念だったな」
「……はい」
羅狼は憧れであった。
生きる目標でもあった。
いつか必ず、この男を殺してやりたい。
誰よりも強くなって、誰よりも強い、この男を。
「薬は飲んでいたか?」
「はい。……でも、効き目が切れて、今はこの様です」
「飲んでいなければ、もっと楽に意識を失っていたものを。
残念だったな」
同じ言葉を繰り返しながら、
羅狼は、風午の額に掛かった髪を避けて、額の血を指で拭った。
羅狼が真横に腰を下ろしているのが、ようやく風午には知れた。
かすんだ目が、羅狼の姿を捕らえて来る。
どうやら羅狼は笑っている様子だ。
「薬を使わねば、羅狼さまの相手を出来ぬ私を、お笑いなのですか…?」
「効き目がある薬を、使いたい奴が使うことに、異論はない。
皆、その薬は頼りになると言っている」
「…頼りになる。…そう感じている私達は、結局は己を信じていないのでしょうか」
解っている。
きっと、誰もが気付いている。
自分自身の強さを、自身の弱さを隠すことで表わしていることに。
「風午」
羅狼は、低い声で少年の名を呼んだ。
「その薬。…俺に飲ませてみろ」
「…え?」
大きく見開いた少年の瞳に、愉しそうに微笑む羅狼の表情が映る。
「お前は、まだ若い。だが、かなりの手練れだ。
そんなお前は、これから成長していく」
「……はい」
「未来のお前は、きっと怖いだろうな」
羅狼の青い瞳に、風午の姿が映っていた。
「……はい! …きっと!」
少年は、声を振り絞って返答した。
声を上げて笑いたかったが、腹が痛くて思うような表情が作れない。
いつまでも横になっているのも恥ずかしい。
身体を起こそうと頑張るが、痛みに痺れて動くことが適わない。
「……う、…くそっ」
「その様子では、当分の間は動けんだろう」
悪びれた様子もなく、羅狼は嘆息した。
どうしようか。
痛みが引くまで、ここで寝ているのも無様だ。
だからと言って、羅狼に運んで貰う訳にもいかない。
どちらの姿も、他の仲間に見られでもしたら。
少年は自身のふがいない姿に羞恥した。
「どこに、ある?」
「羅狼…さま?」
仰向けに寝そべったままの風午を、羅狼は見下ろした。
破れた襟元に手を掛け、服の切れ端を取り除く。
「あ…」
「……あぁ。これか」
羅狼の指が、風午の胸元を探った。
薬を入れた小さな筒が取り出される。
「羅狼さま」
「今のお前には、必要だな」
深手を負わされた挙句に担がれるのも、このまま野ざらしにされるのも、
どちらも少年に屈辱を与えるものであると、羅狼は心得ているらしい。
薬を飲めば、再び痛みが失われる。
自分の力で歩いて戻れるだろう。
今は一番有り難い選択だ。
「…済みません。…是非、それを」
少年はか細い声で、依願した。
羅狼は大きな掌に小さな薬の粒を乗せ、口に含んだ。
「………う!」
少年の目が、更に大きく見開かれた。
あまりのことに、一瞬痛みを忘れる。
「……んぅ!?」
羅狼の唇が、風午の言葉と呼吸を奪った。
動けぬままに口を塞がれ、舌先で薬を押し込まれる。
「は…、…うっ!」
「飲み込め」
「……!」
羅狼の手が、風午の頬を掴んで口を覆った。
苦しさに、風午は口の中に残った息と一緒に、薬を飲み込んだ。
ごくりと喉が鳴る。
大きな掌が、離れた。
「は…ぁ…っ!」
激しく咳き込んだ。
呼吸が整わず、動悸が治まらない。
「……羅、…狼さま」
まさか羅狼が口移しで薬を飲ませるなど、思いもしなかった。
その行為に、風午は動揺した。
一人で薬を飲めぬ程に、情けない姿を晒しているのだろうか。
そう思うと、息苦しさにから目尻に溜まった涙が零れ落ちそうになる。
「暫く、そうしていろ」
羅狼は唇の端に着いた風午の血を、舌で舐め取った。
その舌の赤い色に、風午は頬を紅くする。
「先に行く」
羅狼は立ち上がった。
寝そべった格好で見上げる羅狼の身体は一層大きい。
まだ遠い。
まったく適わない。
もっと、もっと強くならなければ。
羅狼の闘いを初めて見た時、魂が震えた。
こんなにも強い男は見た事がなかった。
舞うように闘う。
鮮やかに闘う。
宴のように、笑いながら羅狼は闘うのだ。
強くなりたい。
羅狼と闘える程に、強く、強くなりたい。
風午は願った。
「……っ!?」
眩しい。
空高く昇る陽が、強い光を放っていた。
暑い。
感覚の戻って来た身体が、日に当たって暑い。
今日は、こんなにも晴れていたのだと、風午はふと思った。
「……え?」
今まで羅狼は、側に座っていた。
目を覚ますまで、ずっと側に居てくれたのだ。
羅狼が座っていたのは、陽が射し込む方角だ。
その大きな身体は、討ち果て倒れた風午に影を作ってくれていた。
動けぬ身体を、この日向に置き去りにされていたとしたら。
傷の痛手に加えて水分を失い、命を失っていたかも知れない。
「羅狼…さま?」
まさか、と思いつつも自惚れてしまう。
屋内に運び込まず側に居てくれた、羅狼の優しさを信じてしまう。
大きな掌。
唇の感触。押し込まれた舌の、血の味。
「………」
不思議な感覚に囚われる。
羅狼への、憧憬。
強くなりたい気持ちとは別な想いが、混じったような気がした。
鷹の鳴く声が、青い空に響いた。
「……急かすなよ。…今、行く」
風午は、ようやく動かせるようになった身体を起こし、天を仰いだ。
終
2007.10.29
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